稲村崎成干潟事

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極楽寺の切り通しに向かった大館次郎宗氏は、本間山城左衛門のために討ち死にし、 兵士たちは片瀬・腰越まで退却したというので、 新田義貞は逞しい兵士たち万余騎を率いて、 二十一日の夜半ばかりに、片瀬・腰越方面から、 極楽寺坂へと臨んだ。 明るくなっていく月の光に敵の陣を見れば、 北側は切り通しだが、山は高く、道は険しいうえに、 木戸をかまえて垣をめぐらし、 数万の兵が布陣していた。 南側は稲村ヶ崎だが、砂浜は道狭く、 波打ち際までとげだらけの柵を幾重にも設け、四五町(約500m)ほど沖には大船を並べて、 矢倉をたてて側面から矢を射かけようと待ちかまえていた。

大館宗氏がこの陣を攻めきれずに敗退したのはまことにもっともであったと、 新田義貞は思ったので、 馬よりおりて、兜を脱いで海上をはるばると伏し拝み、 竜神に向かって祈誓するには、 「日本開闢の主、伊勢天照太神は、 日輪に本尊を隠し、 青海原の竜神に姿を現し給うと伝え奉る。 わが君後醍醐天皇はその子孫であるが、 逆臣の為に隠岐の島に流され給うた。 義貞、今、臣下としての道を尽すため、 武器を取って敵陣に臨む。 その志はひとえに王化を助け奉り、民を安んずることにある。 仰ぎ願わくば、内海外海の竜神八部、 臣の忠義をかんがみて、海の潮を万里の外に退け、 道を三軍の陣に開かせたまえ」と、まことに誠実に祈念し、 自ら佩びた黄金作りの太刀を抜いて、 海中へ投げた。

本当に竜神が納受したのだろうか、 その夜の月の入り頃に、 それまで一度も引き潮になったことがなかった稲村ヶ崎がにわかに二十余町(約2km)も干上がって、 平らな砂地が広々と広がった。 横手から矢を射かけようと待ちかまえた数千の兵船も、 引き潮に流されてはるか沖合いに漂った。 不思議で類い無いことだった。 新田義貞はこれを見て 「漢の弐師将軍が、 城中に水が尽き、渇え攻めにあったとき、 刀を抜いて岩石を刺したら、 飛泉がにわかに湧き出たと伝え聞く。 また、我が朝の神功皇后が新羅を攻め給うたとき、自ら干珠を取り、 海上に投げ給うたら、潮水遠く退いて、ついに戦いに勝つことができたと。 今起きたことはこれら古い和漢の事例に類似した吉兆であるぞ。 さあいまこそ進め兵士たちよ」と下知したので、 江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井の人々をはじめとして、 越後・上野・武蔵・相摸の軍勢ら、六万余騎が一群となって、 稲村ヶ崎の遠浅の干潟を真一文字に駆け通り、鎌倉中へ乱れ入った。

あまたの敵兵はこれを見て、 後から来る敵にかかろうとすれば、前の寄せ手が追いかけてきて攻め入ろうとし、 前から来る敵を防ごうとすると、後ろの大勢が道を塞いで討とうとするため、 進退極まり、東西に心迷って、うまく敵に対抗して戦うことができなかった。 (以下略)